
22年前の今日「ジャイロキャプテン」は生まれた
パチンコで人生計画が崩壊するもパチンコに生かされもしたパチンコライタージャイロがパチンコニュースを語るお時間がやってきた。
パチンコ業界をぶった切るジャイロニュースの時間だが、今回はちょっと趣向を変えてあるライターのニュースをお届けしたい。というのも本日10月20日は私ジャイロ(キャプテン)のライターとしての誕生日なのだ。
知っている人もいるかと思うが、私ジャイロは元々パチンコ攻略マガジンという雑誌に所属するパチンコライターだった。パチンコライターといっても個人事業主ではなく、会社員(入社時はアルバイト)として会社に所属する社内ライター的なちょっと変わった職種であった。
同期のライターは助六とロンダート。編集部員では今ではこの「パチマガスロマガFREE」の編集長を務めるほどに出世したちゃんながこと永山くんもほぼ同期だ。つまり現在の編集部員はほぼ私よりも後輩ということになるね。歳を取ったもんだ。
どうした急に? という話だが、先日打ち合わせで飯田橋に行ったときに神楽坂にあるパチマガ編集部が懐かしくなり周辺を散策していたら色々なことが頭の中を駆け巡ったんだよね。
2003年10月20日に初出社だったけど池袋で電車が止まっていたこと、会社で助六くん、ロンダートくんと初顔合わせして新人3人で偉い人に連れられて社内を挨拶まわりしたこと、大戸屋でお昼を食べたこと、その後ドテさんに連れられて初のデータ取りにいったこと……。走馬灯ってこれかというくらい一瞬のうちに駆け巡った。
なおドテさんの第一声は「辞めないでね!」だったw そして、当時大学生だったロンダートくんは大学卒業後に就職ということで卒業したが、ジャイロと助六はパチマガ攻略軍団のエースとして10年以上に渡って活躍していくことになるのだった。
データ取りは秋葉原で、どの店のどの位置かまで覚えている。ドテさんや助ちゃんにこの話をすると怖いとかキモとか言われる。逆になんで覚えていないんだよ!
これが22年前の今日の記憶である。
なんでパチンコなんて打ち始めちゃったんだろ
自分はもともとパチンコを毛嫌いしており、自分の家族や親族でもパチンコを好んで打つ人は皆無。私も一生パチンコを打つこともないだろう、ということすら考えもしないくらい、自分の頭の中に「パチンコ」というワードがなかった。まさに「私の辞書にパチンコという文字はない」というやつだ。
だが、現在ではそのパチンコと縁のない家族、親族の中で唯一私だけがパチンコを打つようになってしまった。ついでに言えば競馬をたしなむのも私だけ。そして結婚していないのも私だけだ……(死にたい)。パチンコを覚えなければ別の明るい未来があったんだろうな……。
………………………。
──もう大丈夫だ、話を続けよう。その私を何度もパチンコに誘ってきた友人がいた。以前どこかで書いたことがあるが、平成7年7月7日の話だ。
その7が3つ揃う日にパチンコで10万勝ちした彼は「札束で人をビンタしてみたい。金をやるからビンタさせくれ」と夜中に私をよびつけて実際に札束ビンタしてきた。2025年の感覚で読むとドン引きすると思うが、当時の私は10万円勝ったなら1万円くらい貰えるかも!? とワクワクでビンタされに向かった。しかし貰えたのは500円玉一枚に百円数枚だったという、上の初出勤の話とは違って、悪い意味で脳裏に焼き付いて離れない記憶である。なおこの時点ではパチンコって10万円も勝てるんだと認識はしたが打っていないし打とうとも思わなかった。
結局初めて打ったのは今から翌年の高校卒業直後。友人のように在学中から打っている者も多かったおおらかな時代だったが自分は卒業するまで打たなかった。と言っても、卒業まで我慢していたわけではなく、単に興味が無かっただけだった。
だが、高校3年生の夏からロッテリアでアルバイトもしており、貯金が20万円ほどあった状態でこの札ビンタの友人からまたパチンコに誘われたのだ。
今までは断ってきたがこのときは誘いに乗ってしまった。理由は3つ。
①貯金がそれなりにあったから
②パチプロの存在を知り、プロがいるなら勝てる方法はあると思ったから
③千円だけならいいか
結果、その1000円でしっかりと大当りしてしまい、結果的にそれがまともな人生プランをブチ壊す第一歩となったのである……。このパターンで人生もってかれた人めちゃくちゃいるんじゃないか? なお、機種はSANKYOのFギャラクシーだった。(SANKYOは俺へのお詫びとして仕事(案件)と毎年2億の配当金を私に渡すべきである。はぁ、ブルーロックとかガンダムSEEDとかSANKYO機種がマジで好きだしコラムでも動画でも楽しい打ち方を模索してススメてんのに仕事こねえなあww)
なお、この日はその足でコンビニに走り、パチンコ雑誌をいくつも物色した。もちろん買ったことはなかったがコンビニにパチンコ雑誌が売っていることは知っていたのだ。ガイドかマガジンか……選ばれたのはマガジンだった。
将来パチンコライターになることが確定した瞬間でもあったかもしれない。
もともと文章を書くのは大好きだったし、自分の書いた文章が全国で読まれること、そして生粋の目立ちたがりでとにかく名を売りたいこと。ぼんやり描いていた夢がパチンコライターになればすべて叶うではないか!
買ったばかりのマガジンに出ていたのはBOSSさんやネギ坊さんだった。ネギ坊さんは誌面初登場時、葱葱って名前だったんだぜ、知ってた?
そしてマガジンを読んで勝てる理屈を学び、日々パチンコを打ち、積み上げたパチンコの期待値と同じだけ人生の期待値を崩壊させる日々を歩み始めることとなる。
色々と思い出すことが多くて長編になってしまった。デビュー戦から時は流れ、最初に書いたように7年後の2003年10月20日にデビューとなるのだが、なぜ7年もかかったのか、は次回に書かせてもらおう。(編注:この記事のカテゴリ、「ニュース」なんですけど……)
パチンコを覚えてから29年の流れを1回で終わりにできるわけなかろう!
※SNSでは25年と言ったけど計算したら22年だったわww老化が始まったな!